ライオンズ名脇役列伝

【ライオンズ名脇役列伝】大塚光二~レギュラーになれずも日本シリーズで大活躍~

ライオンズ名脇役列伝
スポンサーリンク

はじめに

【ライオンズ名脇役列伝】では、ライオンズを支えた「名脇役」を紹介したい。

記念すべき1回目は、90年代に控え外野手として欠かせない存在だった大塚光二だ。

基本情報

投打右投左打
身長/体重180cm/78kg
生年月日1967年8月26日
経歴育英高 – 東北福祉大
ドラフト1989年ドラフト3位

年度別成績

































1990西 武241515640004001000050.267.267.267
1991西 武633100000010000021.000.000.000
1992西 武641049422324204012456040171.340.426.367
1993西 武78129116924310298219211211.207.250.217
1994西 武15484561411120411102091.311.444.340
1995西 武508779519210231201070152.241.291.302
1996西 武25514651620121811005080.348.457.412
1997西 武7413711515256224117115395321.217.357.295
1998西 武621441281637622537115092253.289.414.345
1999西 武5086784163001910112150193.205.244.250
2000西 武17282636301123111010120.231.462.259
2001西 武122000000000000010.000.000.000
通 算46683474792193309726270151330643816613.258.351.303

東北福祉大伝説のキャプテン!?

育英高校から東北福祉大に進学した大塚は、同期の佐々木主浩らと共に2年、3年時の大学選手権で準優勝に輝く。

個人では、最優秀選手2回・首位打者3回・最多本塁打1回・最多盗塁1回・ベストナイン5回という活躍だった。

Wikipediaによると、『「東北福祉大学伝説のキャプテン」と呼ばれて各球団の後輩選手から慕われていた。』らしい。ソースを探したが、ネット上では見つけることができなかった。

西武黄金時代の控え外野手

西武入団後は、主に外野の控えとしてプロ生活を送る。

黄金時代の西武では、ライト平野謙・センター秋山幸二が固定で、レフトを安倍理・森博幸・笘篠誠治・吉竹春樹らが争っていた。

大塚もスタメン起用はあったが、これと言った成績は残していない。92年の終盤にスタメン起用が増えて、64試合で打率.340を記録したぐらいか。

また、脚は速かったが、盗塁は多い年でも4個にとどまっている。通算でも盗塁15に対して盗塁死が13と、盗塁は下手だったようだ。

それでも、安定した守備と小技、そして俊足を武器に、西武黄金期の控え外野手としてチームを支えた。

日本シリーズでは大活躍

シーズンではあまり目立たなかった大塚だが、日本シリーズでは印象的な活躍を見せた。

まずは92年、ヤクルトとの日本シリーズ。

1点ビハインドで迎えた第6戦の9回表、2死走者なしで打席が回ってきた大塚は四球を選ぶ。続く秋山幸二が右中間へのヒットを打つと、大塚は一気にホームへ!キャッチャー古田のブロックをかいくぐって左手一本でホームベースをタッチして判定はセーフ!土壇場で見せたこの見事な走塁は、「神走塁」としてプロ野球ファンに絶大なインパクトを残した。

なお、こちらの動画でその走塁を見ることができる。

94年の巨人とのシリーズでは、全試合で「2番ライト」でスタメン出場。チームは敗退したが、大塚はシリーズ打率.320の好成績を残した。

極めつけは、98年の横浜とのシリーズ。第5戦から第6戦にかけて6打数連続安打のシリーズ新記録(当時)を樹立し、打率.643の活躍で敢闘選手賞を受賞した。

日本シリーズ通算では58打数23安打で打率.397という数字を残しており、これは50打席以上では歴代1位の記録である。

『ドカベン プロ野球編』でも渋い活躍

『ドカベン プロ野球編』は主人公の山田太郎が西武所属ということもあり、大塚光二もチームメイトとして出番があった。

その中でも印象的だったのが、ドカベン最強投手・不知火守(日本ハム)を攻略するために、大塚がわざとユニフォームをブカブカに着て、インコースの球をユニフォームにかすらせて死球を取ったシーンだ。

これには、不知火も「これが西武の強さだ…」と関心するしかなかった。

最後に

日本シリーズでの活躍もあってか、レギュラーになれなかった割に知名度が高い選手だった。

引退後は、日本ハムのコーチや母校・東北福祉大の監督を務め、現在は野球評論家として活動している。

コメント