はじめに
1986年からの9年間でリーグ優勝8回、日本一6回。森祇晶監督時代の西武ライオンズの成績である。
この圧倒的な数字は、もちろんAKD砲(秋山幸二、清原和博、デストラーデ)や強力先発投手陣(東尾修、工藤公康、渡辺久信など)といった主役の存在が大きかった。
しかし、脇役たちが自分の仕事をきっちりこなす、これもまた森西武の強さだった。
今回は、内外野守れるユーティリティプレーヤーとしてチームを支えた笘篠誠治を紹介したい。
基本情報
投打 | 右投右打 |
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身長/体重 | 180cm/73kg |
生年月日 | 1964年6月22日 |
経歴 | 上宮高 |
ドラフト | 1982年ドラフト2位 |
年度別成績
年 度 | 所 属 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 刺 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 長 打 率 | 出 塁 率 |
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1983 | 西 武 | 5 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 |
1986 | 西 武 | 56 | 93 | 79 | 19 | 22 | 2 | 0 | 2 | 30 | 3 | 4 | 2 | 10 | 0 | 4 | 0 | 13 | 1 | .278 | .380 | .313 |
1987 | 西 武 | 106 | 313 | 277 | 31 | 61 | 7 | 4 | 7 | 97 | 22 | 14 | 5 | 21 | 1 | 14 | 0 | 49 | 6 | .220 | .350 | .257 |
1988 | 西 武 | 56 | 83 | 71 | 17 | 20 | 3 | 1 | 2 | 31 | 10 | 3 | 2 | 7 | 0 | 5 | 0 | 9 | 2 | .282 | .437 | .329 |
1989 | 西 武 | 60 | 89 | 81 | 20 | 15 | 4 | 0 | 0 | 19 | 1 | 3 | 2 | 5 | 0 | 3 | 0 | 9 | 0 | .185 | .235 | .214 |
1990 | 西 武 | 90 | 172 | 140 | 26 | 38 | 5 | 3 | 0 | 49 | 7 | 11 | 1 | 19 | 0 | 12 | 1 | 23 | 3 | .271 | .350 | .333 |
1991 | 西 武 | 81 | 170 | 148 | 23 | 41 | 3 | 2 | 1 | 51 | 16 | 6 | 6 | 9 | 1 | 12 | 0 | 20 | 3 | .277 | .345 | .329 |
1992 | 西 武 | 107 | 194 | 166 | 26 | 49 | 6 | 1 | 3 | 66 | 19 | 16 | 4 | 11 | 1 | 14 | 2 | 21 | 5 | .295 | .398 | .355 |
1993 | 西 武 | 112 | 277 | 236 | 37 | 61 | 8 | 2 | 2 | 79 | 21 | 8 | 3 | 17 | 3 | 20 | 1 | 28 | 8 | .258 | .335 | .315 |
1994 | 西 武 | 101 | 214 | 184 | 28 | 49 | 7 | 2 | 1 | 63 | 10 | 11 | 1 | 12 | 1 | 17 | 0 | 25 | 6 | .266 | .342 | .327 |
1995 | 西 武 | 57 | 72 | 58 | 14 | 13 | 2 | 1 | 0 | 17 | 6 | 6 | 1 | 6 | 2 | 6 | 0 | 8 | 2 | .224 | .293 | .288 |
1996 | 西 武 | 29 | 37 | 30 | 4 | 9 | 2 | 0 | 0 | 11 | 5 | 4 | 1 | 3 | 2 | 0 | 2 | 2 | 2 | .300 | .367 | .324 |
1997 | 西 武 | 24 | 24 | 20 | 6 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 4 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | .150 | .150 | .227 |
通 算 | 884 | 1739 | 1491 | 252 | 381 | 49 | 16 | 18 | 516 | 121 | 90 | 29 | 122 | 11 | 109 | 6 | 209 | 38 | .256 | .346 | .307 |
入団3年目にアメリカへ野球留学
1年目から一軍昇格を果たした笘篠だったが、2年目は一軍出場なしに終わる。すると3年目、春季キャンプ終了後にアメリカへの野球留学を命じられた。
異国の地で開幕を迎えた笘篠だったが、開幕早々アクシデントに見舞われる。試合中の走塁で相手の遊撃手と交錯、顔面複雑骨折の大怪我という壮絶な体験をしたのだ。復帰したのは2ヶ月後、アメフトのヘルメットを着けながらプレーした。
散々な出来事だったが、同僚が突然解雇されるのを目の当たりにして野球に対する姿勢を改めるなど、収穫もあった。
アメリカでの修行を終えた4年目の1986年から笘篠は一軍に定着することになる。
内野の控えからユーティリティプレーヤーへ
一軍定着後、笘篠は主に内野の控えとしてプロ生活を送った。
正二塁手の辻発彦が長期離脱した1987年こそセカンドでのスタメン出場が増えたが、辻が復帰してからは再び控えに。レギュラー獲得とはならなかった。
転機になったのは1988年、試合中に怪我人が出て外野手が足りない状況になった時に出番が回ってきたのだ。外野守備を無難にこなした笘篠は、内外野守れるユーティリティプレーヤーとしての地位を確立する。
ある時は代走や守備要員として、またある時はレフトのスタメンとして、辻発彦が離脱した時はセカンドのスタメンとして出場するなど、チームに欠かせない戦力になった。
野茂のクセを見抜いて出番を増やす
西武と毎年のように優勝を争った近鉄のエース野茂英雄。難攻不落の天敵を攻略するために、笘篠は投球ビデオを食い入るように見続けた。
そして見つけた。トルネード投法で背中を打者に向ける時にグラブの中の右手が一瞬だけ見えるのだが、ストレートの時は小指が伸びていてフォークの時は曲がっていたのだ。
クセを見抜いた笘篠は、野茂との対戦時はストレート一本に絞ってヒットを重ねた。これにより、野茂に相性が良い打者として出番を増やすことに成功したのである。
因みに、ミーティングでこの野茂攻略法を他の選手に伝授する機会があった。しかし、集中しても小指が中々見えない上に、見えたとしても打撃に間に合わないということで、結局誰も会得することができなかった。
最後に
弟の笘篠賢治はヤクルトでプレーし、1989年の新人王に輝くなど活躍した。
こちらも、内外野守れるユーティリティプレーヤーだった。
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